セラピスト活動をするまでの、小さなきっかけを書いています。
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中学2年生当時の記録は今日で終わりです。
次からはまた違った話になります◎
◇◆◇
祖父の葬儀が終わって日常に戻り、何日か経ちました。
葬儀の時に、お見舞いに行った次の日に祖父がなくなったことを知った親戚に、
「きっと(来るのを)待ってたんやね」と言われたことが気になっていました。
行かなかったらもう少し長く生きていたのかなと思うようになりました。
でも、そうじゃないなと。
何であんなに頑なにお見舞いに行かなかったんだろうと考え始めました。
病気になって祖父の様子が変わっていること
もうすぐ亡くなってしまうこと
その時が近づいていること
きっと無意識に感じていたんだと思います。
自分にできることがなくて、絶望感のようなものでいっぱいでした。
顔を見に行くだけでも良かったはずなのですが、
その姿を見るのが怖かったのかもしれません。
考えが一巡したところで、どっと後悔が押し寄せてきました。
もっと沢山おじいちゃんと話したかった。
もっと顔を見に行きたかった。
私だけ姿を見せなかったこと、どう思ってたんだろう。
素直になっておけば、もっとできることがあったじゃないか。
何もできないまま、会えなくなってしまった。
私は何も伝えずに、逃げていたんだと感じました。
その後悔は何年も引きずることになりました。
◇◆◇
身近な人が、いわゆる終末期に入った時、
元気だった時を知っているからこそ、また違った姿を見て戸惑ったり、
何もできることがないと感じて無力感を持ったり、
これから先どうしたら良いのかという思い、
ただただ離れたくない思い、
などなど、色々な気持ちが渦巻くでしょう。
自分のように戸惑ったりしたまま別れてしまう人もいるかもしれない。
後悔を少しでも減らせるよう、複雑な思いがあったとしても、
別れまでの時間にできることは何かないだろうか。
それは患者さんにとっても周りの人にとっても大事なことにはならないだろうか。
一方で、臨終の際の病院の対応を見て、
家族や周りの人への配慮って何もないのかなとも思うようになりました。
死別について、そんなことを物凄くぼんやり考えるようになったのが、
中学2年生の時の出来事です。
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